愛する人を失ったことがあるでしょうか?
私たちは失った人が愛する人であればあるほど、単に悲しみという言葉では言い表せない深い感情に支配されます。
それは人生で一番つらい感情の1つです。
・・・例えば10代の女性にとって、最愛にして最大の理解者である父親を失ったの場合の悲しみはどれほどのものでしょうか?
今春、私の元から旅立つ学生(B)が大学2年生の時、まさにその状況に陥りました。
新学期から苗字の変わったBは私の前で自我をことさら強く打ち出して、なんとか自分を支えようとしていました。
「自分はできる」「自分には才能がある」ことを強く主張し、他の学生とも、一部の教員ともぶつかることが多かったようです。
Bは実際に才能のある学生ではありますが、まるでガラスの破片のように鋭利なBの感情は人を傷つける恐れがあるばかりでなく、なんらかのきっかけて自身をも傷つけてしまうリスクを併せ持っていました。
実際、2度ほど、映画撮影中に彼女の心が砕けそうになる瞬間にも立ち会いました。
「映画作りは人間作り」という立場をとる私は、学生の人間的な課題や、本人が気づいていない問題点を指摘することがあります。
学生の愚かな自分勝手をそのままにすることはありませんので、どちらかといえば厳しい先生に見えるかもしれません。
ガミガミと感情的に指導する若さは私にはもうありませんが、感じた問題点をシェアすることで、学生の気づきが促進される場合が多いので、指摘するのです。
しかし、Bについては何も言いませんでした。
言えませんでした。
同情も教育的指導もせずに、ただ、いくつかの作品を監督させました。
精神的に寄り添うなんてこともしていませんし、そもそもそんなことできませんでした。
ちょっと触ったら壊れてしまいそうでしたので。
でも、一度「無我」についての話をしたことがあります。
「観客の心によき影響を与えることが監督の目指す唯一のものだ」という正論を伝える機会があったのです。
「そのためには自我を捨てて、無我を目指すのが良いよ」
・・・その話をした後で私が研究室を離れている間に、Bは腕をまくって、マジックで「無我」と書いていました。
心がとても透明なのです。

結局彼女は、5つの作品を監督しました。そのうちの3年時の作品は海外の映画祭で次々に入賞する快挙を果たします。
そして、先日、卒業制作の発表がありました。
その作品は、現在や未来に楽観的な見通しが立たない主人公が、人類の死滅した世界で、過去にすがりながら、希望を探すという話。
緊張感のある素晴らしい作品でした。ヒリヒリするぐらいBの気持ちが投影された作品です。
舞台挨拶でBはこんなことを言っていました。
「自分は自分だけを信じてきたけど、たくさんの人に支えられたことを今感じている。心から感謝したい」
映画の制作も社会人になってからも続けるようです。
彼女の心の成長の旅は終わることはないでしょう。
愛する人が戻ってくることはないかもしれませんが、継続的な創造のエネルギーでBが心の成長を遂げたことだけは確かだと感じます。
一般に、映画制作は人を成長させますが、今回は長い時間をかけた5作品の創造が彼女をゆっくり、醸すように変えていったような気がしています。
時間という名の大きな愛が最良の薬となったのです。
レイシェル青春映画塾 園田
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