「映画監督になるには、どうしたら良いのかがわからない。」という方は多いと思います。
Yahooの知恵袋などで、そうした話題が取り上げられているのをたまに目にします。
知恵袋では
「映画監督や映画の脚本家にクリエイティブ系専門学校を出た人は少ないのでそうした学校には行くべきでない」
「日本はダメだからアメリカに留学しなさい」
などと無責任とも思える回答が多く、質問者の心が折れてしまうのではないか、と心配になる程です。
おそらく、こうしたものには何も知らない人が知ったふりをして回答しているのでしょう。
確かに「この資格を取れれば開業できる」というものがあるわけではないですし、昔からハードルが高くて、なりたい人は多くなれる人は少ない、という職業の代名詞が映画監督なのかもしれません。
今、職業といいましたが、映画監督というのは職業とは言い難く、商業的な仕組みの中の監督と、独立系の映像作家とでは置かれている環境が違いすぎて、ひとまとめに語れない部分があります。
現に私の映画塾の塾生の方の中には職業の映画監督(ざっくりと商業監督とここでは言います)を目指す方もいますし、趣味の方、自己実現のためのチャレンジとして映画監督(映像作家)になる方もいらっしゃいます。
今の時代、老若男女がさまざまな思惑で新人監督になろうとしています。
ということで何とも定義するのに困ってしまう映画監督という存在ですが、今回はあなたが将来映画監督になるべき人なのか、否かを簡単に診断してみたいと思います。
題して「こんな人は映画監督は向かない」3つのタイプです。
1「映画監督の権力に憧れている人」
ただ、現状の情けない自分を人からの評価や社会的権威で補完しようとしているだけの未熟な夢追い人・・・皆様の周りにもいるんじゃないでしょうか?
特に伝えたいものがないのが彼らの特徴です。
こうした方の多くは努力が長続きせず、しばらくすると別の興味に向かっていってしまい、消えていきます。
しかし、こうした人の中で、異様な熱意で権力を志向する人も存在し、その場合は人を利用し、蹴落としてでもチャンスを掴もうと躍起になって努力します。
そして、あるあるなのですが、こうした人の中には成功する方が少なからずおります。
世にいう「天狗」型の成り上がりです。
天狗たちの元々の思いは前述の通り、自信のなさから発することが多いのです。
自信がないから、人をあっと驚かせ、圧倒し、優越しようと努力に余念がありません。
だから結果として、成功の確率が上がるというわけです。
映画監督に限らず、芸能界の中でも成功者のうち一定数はこうした天狗型の人間でしょう。
実力があるわけではなく、大きな声と目につく表現やルックス、大胆な人間関係構築力で、成功を掴むわけです。
しかし、だとしたら、なんとさもしい精神の軌跡でしょうか。
非情な言い方かもしれませんが、天狗の権力が落ち込んだ後に悲しむのは利害関係のあったビジネスパートナーだけかもしれません。
・・・現在、芸能界や映画界でこうしたタイプが天狗の高転びをしていますので、ちょっと辛辣になってしまいました。
2「受け身な人」
映画の大学や専門学校に進んだとしても、敷かれたレールでカリキュラムに沿ったことを学んで、粛々とテストを受けている人には映画監督の適性はないかもしれません。
受け身な人たちは「それが当然だろう!監督コースにお金を払って教育を正々堂々受けて、それでなぜ監督適性が育まれないのだ!」と怒り出すかもしれません。
ここでまず注意してほしいのは、映画監督という存在ほど主体的な発想が求められる役割はないということ。
自分で学びたい先輩、先生、授業から積極的に学んでいく姿勢が必要なのです。
作品の作り方を学ぶことより、自分にはすでに作りたい作品があって、それに必要な技術を学ぶ、という方が合っています。
受け身な人は、今まで受け身でいることが正しいと教わってきたのかもしれません。歴史は教えてもらって当然、英語も教えてもらって当然、部活などのスポーツも教えてもらって当然だったのでしょう。
映画監督を始めとするクリエイティブな存在の精神性はこうした考えの対極にあります。
「躬行(きゅうこう)」という言葉があります。
「ハイ!私がやります!」と、自ら進んで行うこと、という意味ですが、この躬行の精神が一番必要なのが創造活動、特に映画監督という役割なのです。
だから逆に、今まで受動的な人生を送ってきた人が、オリジナルの小さな映画作品の監督にチャレンジすると、ひたすら要求される「能動性」の嵐を前に全く異なる自己を発揮せざるを得なくなります。
その意味で映画作りは今まで受動的な人生を送ってきた方にこそ、かなり劇的な心の変化をもたらします。
逆にいうと、映画監督への適性は現時点では乏しいけれど、逆説的に映画を一番作ってほしい人が受動的な人です。
3「愛のない人」
こういうと元も子もなく(恐縮です)、強烈に聞こえてしまいますが、実際、愛のない監督は周りにも観客にも不幸を再生産していきます。
映画作りは個人でもできます。
私の映画塾でも個人で映画を撮影するのが基本で、そのスタイルで映画祭に入賞する方も多いのが実態です。
個人ですべて完結する場合は影響は少ないかもしれませんが、映画は多くの場合、出演者やスタッフを集めて皆で作ることが多いわけです。
特に自主映画をスマホで撮る作品の場合は、友人や知り合いの俳優さん、モデルさんに高額のギャラを払ってお願いするということはできませんから、信頼関係を築いた上でボランティアで手伝ってもらうことになります。
そのくせ、演技などに注文を出さなければならないわけです。
周りへの配慮や愛に欠ける人に協力した人は結局、自分の時間を奪われた喪失感を強く感じるでしょう。
自分勝手で苦手なタイプがあなたの周りにもいるかもしれませんが、そのような人の映画作りのために、あなたの貴重な1日がまるまる費やされてしまったら、いくら優しいあなたでも「もう2度とやるものか」と思うのではないでしょうか?
細かな愛情や感謝があれば、それがスタッフ間の仲間意識を形成して、結果として温かな雰囲気で作品に取り組むことができるものです。
「愛のある人」あるいは「映画作りには愛が必要だと最初から思える人」にとっては、こうしたことは自然に行うことができるものかもしれません。
愛のある監督が現場の雰囲気を作っていった映画作品は内容も質も良いものになっていくであろうことは想像に難くないでしょう。
以上、「こんな人には映画監督は向かない」3つのタイプを示しました。3つのタイプに当てはまる方は映画監督に向いていない、これが私の意見であります。
ここから振り返ってみると、映画監督に向いているのは「天狗の如き権力志向にならない」「能動的な」「愛がある」人ということになります。
・・・しかし、最も映画監督に必要な要素をもう一つだけ付け加えなければなりません。
最後にして最強の資質・・・それは「創造への情熱」です。
映画監督になりたい人はまず、自らの心に問うて見てほしいのです。
あなたには情熱がありますか?
その作品で自分を変えたい?人を変えたい?世界に影響を与えたい?勇気を与えたい?自分の考えを知ってほしい?楽しい瞬間を共有したい?乗り越えたことをシェアしたい?感動をドラマに保存したい?
人や社会にプラスになることならなんでも良いですが、強く思う希望があること。
バーニングデザイア、燃え上がるような希みです。
これがある人は、ぜひ映画を作ってほしいです。
まずは映画の学校で学んでいても、自主映画を孤独に制作していても、バーニングデザイアさえあれば、映画に必要なすべての知識は自然に備わっていきます。
皆様の熱い作品がいつか観たいものです!
レイシェル青春映画塾 塾長 園田映人(映画監督)
※映画監督になることの素晴らしさを語って見ました。よろしければご覧いただけると幸いです。
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